「元気をもらう」について考える

私が最近,気になってしまう言い回しというのがいくつかあって,きょうはそのなかのひとつ,「元気をもらう」という言い回しについて,考えてみようと思う。



というのは,最近,この言い回しを耳にしたり,読んだりする機会が,以前に比べて多くなったように思えるからだ。ひとが,自分を励まされるような事態に立ち至ったときに使われる*1が,私はこの言い回しに,違和感を覚えるのだ。



なぜなのか?―ひとの〈元気〉なるものを,モノのようにやりとり可能であるかのようなイメージを連想してしまうからだろう。
だが,ひとの〈元気〉とは,そんなに安直な代物ではないだろう。やり取りのイメージができる〈モノ〉としてではなく,外因的なことと内在的なこととの絡み合いを通してつくられている〈コト〉として,わが身の〈元気〉という状態があるのだと,私は思っている。
また,〈元気をもらうこと〉と,〈自分じしんが元気になること〉とは,まったく違うことで,「元気をもらって」その場では自分も元気になったかのような気分になっても,翌日からはまた元に戻ってしまうことも,よくあることだ。



この言い回しは,例えば,仕事続きで本当は疲れているのに,ドリンク剤を飲んで,その場は〈元気になった〉ように感じる ―それはあくまで錯覚でしかない― あの感覚に似ているのかもしれない。いわば〈活が入った〉とか,〈空気が入った〉とかの言い回しと,実質同じではないか。



こうした表現が多く聞かれるようになったということは,つまり,私たちがそれだけ〈疲れてしまっている〉ことの証左だろう。通常は〈活が入っていない〉状態だからこそ,〈活が入った〉と感じられる。疲れているからこそ,〈元気〉が求められていく。
〈元気をもらう〉という言い回しにおける〈元気〉には,ドリンク剤の〈元気〉のような,お手軽さ・安直さ,その場しのぎを,私は感じてしまう。



ひと頃,〈癒し〉がもてはやされた時期があった。しかしいまでは,それもさんざん使い回され,消費され,不当に手垢のついたことばになってしまった。次には〈元気〉が同じ道をたどるのだろうか。私にとっては,使いたくない言い回しのひとつである。



〈元気をもらう〉のではなくて,いまや〈元気になる〉ことのほうが大事ではないのだろうか。それは精神論や思い込み*2や,あるいは〈即効性〉の何かでは,期待できないことであることも,また確かだと思う。

*1:「私は彼から元気をもらった」,「私は○○さんのお話を聴いて元気をもらった」など。

*2:あらゆる形態の〈オレサマ〉主義とか。