〈怒り〉を奪われたことの不幸について

先日ウェブ上で、リンク(*1)の文章に行き当たった。一読して、まさに私が10代を過ごしたその時代のありさまだと思わず膝を叩いてしまった。
私は1968年生まれで、ちょうどティーンエイジの入り口から22歳ごろまでが1980年代に重なる。物心ついたときから社会や政治に対する関心はあって、よくクラスの友人とそんな話をしてみたのだが、返ってくる反応の多くは〈暗い〉〈ダサい〉〈ミョーなヤツ〉だった。
もっと言えば〈無関心こそがカッコイイ〉が、80年代の大きなトレンドの基調だった。〈怒り〉は漂白され、揶揄と嘲笑の対象ですらあった。また一方で〈戦争〉や〈反戦〉が、先行世代の経験とつながってイメージ可能であったのも、かろうじてこの頃までであったのではないだろうか(*2)。
独断を恐れず言えば、"ニューミュージック" とは、「私の身の回りの半径数十センチのことがら」しか歌わなかった音楽である。あるいは心象風景とか。そんな音楽の時代を経て、気がつけば、私たちが日頃耳にし、聞き流す音楽のなかに〈風刺〉、とりわけ社会風刺の要素を見つけ出すことは、こんにち極めて困難になってしまった。
バブリーな時代のなかで、大きなものであれ、小さいものであれ、〈怒り〉は封じ込められ、手なずけられ、そして奪われた。おそらく、私たちの世代が、極めて安逸に〈未来〉を手に出来るという幻想を持つことができた最後の世代かもしれない。それはいわゆる団塊の世代以上の〈高度成長幻想〉とどっこいどっこいな、いや、その〈最終バージョン〉だった。
そんな私たちがいま、日々築いている世の中って、どんなものになりつつあるんだろう?じつは、次の世代にとんでもない社会を、「くれてやろう」としているのではないだろうか。
〈無関心こそがカッコイイ〉とされたような私たちの世代の責任を、後続する世代が厳しく訴追し・弾劾する時代がいずれ、訪れるかもしれない。