視線の貧しさ、視線の醜さ

独裁国家でなにをやるかわからない国」だから、朝鮮とは国交を結ぶな、とか、「拉致問題の解決のために金正日政権打倒を」とか、はては「北朝鮮に先制攻撃を」「北朝鮮の核に対抗して日本の核武装を」などということを公言してはばからない政治家や評論家たちにこの国の政治と社会は占拠されてしまったのか。
経済制裁」とか「北朝鮮との戦争」を簡単に口にし、実際の「制裁」や「戦争」にそのまま同意してしまうような感性がますます増幅されつつある気がしてならない。どのような国であろうと相手の国を対等の存在として認め、平和と友好を価値として重んじるような心性を支える「たが」みたいなものが、日々ゆるくなり、あるいは外れていくような、じつに気持ちの悪い風景。このままでよいはずなどひとつもない。
いま一度、問い直したい。メディアの報道によりかかることで、私たちは朝鮮を「金正日」と「難民(国内難民と脱北者)」しかいない国であるかのように思ってはいないだろうか。
安倍晋三は「(日本の核武装で)北朝鮮などペンペン草も生えないような国にしてやる」と言ったことがあるというが、私たちと同じように日々を生きている朝鮮の民衆の姿は、彼の眼中にはないだろう。じつは私たちも、朝鮮を安倍晋三と変わらない「視線の貧しさ」と「視線の醜さ」でしか見ていないのではないか。
韓国に対しては、ワールドカップだ、チョナン・カンだ(ちょっと古いか)と、国家間で問題は抱えながらも「日韓友好・親善」ムードが一定、定着しつつある。しかし、私たちはもう気づくべきではないか。同じ民族の南半分には「友好」を口にしながら、北半分には「憎悪」と「蔑視」を投げつけるというのは、まともではないし、韓国に対する「友好」も"ほんもの"とはいえないことを。
韓国では2000年の南北両首脳の共同宣言以降「恩讐を越えて」(←姜尚中さんのことば)南北統一に向けた民衆間の交流が進展している。石原慎太郎などが喜んで口にしているような「北朝鮮との戦争」をやるということは、300万人の死者と1千万人の離散家族を生み出した朝鮮戦争と同じことを、もう一度、南北全ての朝鮮民族に強制することだ。
拉致問題解決のために」、朝鮮半島の人々に「もう一度戦争を甘受しろ」などという権利が私たち日本の国と社会のどこにあるのか?どこにもないし、そんなめちゃくちゃな話を現実にしてはならない。
経済制裁」がしばしば戦争につながる、戦争を引き起こす措置となることは、かつての日本に対する「ABCD包囲網」とか、湾岸戦争から現在に至るまでのイラクの状況を検討すれば明らかだろう。「拉致問題の解決」と称して、日本の国家と社会がそういう選択をしてしまっていいのか?社民党はそういう選択の側に立ったということになる(もちろん私たちから批判は加え続けなきゃいけない)。
(*1)外為法改正案に対する党の態度について(社民党ウェブサイト)
http://www5.sdp.or.jp/central/news/news0129.html
(*2)日韓・日中いずれの国交回復の過程では、与党の政治家の中にも一定の「親韓派」「親中派」とでもいうべき人々があり、その人たちが大きな役割を果たした。一方、日朝関係においてはそのような存在が与党内には皆無といわれている。批判や問題は大きかったにせよ、旧社会党時代から「日朝友好」を掲げていた社民党の活動はその意味で重要だったはずだ。