「安さ」の前には、人は敵わないのか?

それにしても、である。ウォークイン (※コンビニで缶入りの飲み物や酒類を陳列している冷蔵ショーケース) の補充で感じるのは、「売れるのはまず発泡酒」になってしまったことだろう。私が勤める店の場合、「発泡酒」でないビールで売れるものといえば、ア○ヒのスーパー○ライかキ○ンのクラシック○ガーぐらいだ(それでも発泡酒よりは売れ方が落ちる)。かつて良く売れていた記憶があるキ○ンの一番○りなどは、まず動かない。
ア○ヒのスーパー○ライにしても、その発売当初は「あんなものはビールじゃない」という意見もけっこう強かったようだ(*『居酒屋大全』角川文庫、1987年)。それがいつのまにかビールの主流になってしまった。先日、初めて(!)キ○ンのクラシック○ガーを飲んだ(そのぐらい私とビールは縁遠い存在になっている)が、それで、ラ○ービールがいつのまにか味を変えてしまっていたことを実感として確かめた次第である。
デフレとはいえ、100円ショップが人気を博してるとはいえ、発泡酒の安さの前には、人は敵わないのか。でも、「安さ」の前に人々が殺到するさま(私も紛れもなくその一人)を考えるにつけ、この同じ人々が「バブル」の時期にはグルメだの、ワインだの、「まったり」とか、「やっぱりビールはエ○ス」だのとしたり顔で語り、「ちょっとした贅沢」だのとやってたのだからまあ、(自分を含めて)笑うしかない。
ビールと発泡酒の値段の差は50円前後ぐらいだが、判を押したように大勢は発泡酒になってしまった。かつて「にわかグルメ」や「にわかワイン通」などを気取っていたかもしれない同じ人たちがいまや「安さ」を判断の基準にしている。はっきりいって「みっともない」。問題はその「みっともなさ」をそれとして自覚でき、自分で受け入れ、客観視することができるか否かであり、それが実は重要なことではないかと思う。
バブル期までの「中流幻想」はかなり(リストラ、失業の増加で半ばショック的に)崩れたが、その派生意識である「生活保守主義」≒「大国」ナショナリズムはしぶとく生き残り、息を吹き返そうとしている(「いまの生活レベルを落としたくないからイラク派兵に賛成!」とか)。じつは「バブル」期の一億総プチブル幻想も、いま、100円ショップや発泡酒に人々が群がるのも、じつは同じ現象の「別の表れ」なのかもしれない。
#聖人になる必要はないけど、せめてクールで自覚的な市民にはなりたい。政府やメディアにたやすく「教化」される"臣民"なんてゴメンだ。
#自分の姿を国家と同一化して重ね合わせる「選択」はしたくない。「自分が総理大臣になったつもり」でモノを言いたがる人って、なんか増えてないか?