「法制化」への信仰(あるいは堕落した身体)???

昨夕、なにげにTVニュースを見ていると、旅客機内でのいわゆる迷惑行為を法律で罰することができるようになったとのことだ。今までこうした行為を罰する法律がなかったとのことだが、そのニュースを見ていて、少しユーツな腹立たしさを感じてしまった。行為に注意を促す客室乗務員に向かって「いけないということが法律に書いてあるのか?どんな法律だ?」と逆切れしたり、殴る蹴るの暴行に及んだ例さえあったというのだ。
少し前に「他人に迷惑かけてないんだから、私の自由でしょ」みたいな物言いが流行ったが、この場合はさしずめ「法律に書いてないんだから、何やっても問題じゃねえだろ」とでもいったところ、なのか。
またぞろ罰則が「法制化」されて迷惑行為が減るだろう、といった期待感をにじませた報道だったが、「縛られなければ自らを律することができない」傾向が強くなっているんだろうか。少年犯罪の問題から果ては「北朝鮮脅威論」(←経済制裁法案への動き)に至るまで、法的な強制に問題の「抑止」や「解決」を期待する=別の言い方をすれば「強制」への信仰が強まっているのか。
こう言えば必ず、「現実はそんな甘いものではない。強制を通してルールを分からせることもやむを得ないぜ」という反応がある。なるほどもっともである。それがやむを得ない対処法である場合を、否定はしない。
しかし、何かというと「罰則を」とか、「厳罰化しろ」だの「制裁を!」だのといきり立つのも、人間として悲しくはないか?みっともなくないか?まるでなにか個的な欲求不満を解消するために、そう叫んでる人たちも無きにしも非ず、な印象も受ける。「強制や制裁によってしか人は学ばない」というのなら、これほど救いのない人間観はない。
少年少女たちが「荒廃してる」とか言って大人どもは騒ぐが、いちばん荒廃してるのは、大人どもだ。世間に生起するもろもろの事象の中で(隣人レベルから、政治・外交の天下国家にいたるまで)、今最も冷静さを欠き、自己中で、他者に対する理解より憎悪をふりまいているのは、「社会の中心」づらしてる大人ども(特に団塊の世代!!!!とその前後の世代)ではないのか。何も指針を示せず、出来合いのゆがんだ「国家」やナショナルな感情に寄りかかってしかモノを語れない、その醜さこそが私たちの自画像ではないか。
高田延彦向井亜紀夫妻が「代理母出産」で子どもをもうけた。これについても書きたかったが、また改めて書こう。
#次の給料まで、あと10日。。。く、苦しい(w)