『世界に一つだけの花』をネタに語る(2)

(#1月6日づけ日記"『世界に一つだけの花』をネタに語る"の続き)
…この曲に何がしかの「反戦」とか「平和」の思いを感じる人からすれば、私の思いは「鈍感」といわれるだろうか?また、詞を「そのままで」読みすぎるのだろうか?「反戦」というにはあまりに抽象的すぎるし、「一人一人がじぶんの"分"をわきまえて『自分探し』しなさい」みたいな、文科省の「新学力観」みたいなニオイすら感じる。「一つだけの花」はたがいにバラバラで咲いていて、「花」と「花」のあいだの関係性―連帯性が見えてこないのだ。
ここで例えば、ジョン・レノンの『イマジン』を引き合いに出すなら、「天国(*これは宗教につながる観念だ)などない、と考えてごらん」で始まって、国家、財産、、、と、われわれがこの日々の現実の暮らしの中で知らず知らずに受け入れ、それに縛られているところのもろもろの観念や「支配のカラクリ」を「"ない"と考えてごらん」と聞き手に問いかけ、最後は「僕はいつの日か、君が僕らの仲間となることを望んでるよ」というメッセージで結んでいる。この歌には「問いかけ」と「連帯」への志向が感じられるし、聴き手が現実の社会にも思いをめぐらしていける要素があると思う。一方、『世界に…』は、そこまでの要素に欠けるのだ。「みんなそれぞれ"自分らしく"咲いてるね。良かったね。」で止まってて、この歌を聴くたびに私などは「だからそれがどうした」という思いになる。
だから『世界に一つだけの花』は断じて「反戦歌」ではないし、その意味で長く歌われる歌にはならないだろう。(仮に日本が米国とともに朝鮮に対する武力行使に踏み切ったとして、反戦デモやピースウォークの場《もしそのような自由がまだ残っていると仮定して》で、この曲が歌われるかどうかは疑問だ。「イマジン」など多くの「反戦歌」は、そのような状況に耐えうる強さがあるが、この歌にそれを期待するのは無理かも、と思う。)
世界に一つだけの花』は、聴きやすくていい歌だとは思う。私個人としてはSMAPも嫌いではない。しかしこの歌は大したことは歌っていないし、「反戦歌」として聴かれ、歌われるには、あまりにも「飛躍」がありすぎだと、私は言いたいのだ。(さらに言えば、この歌に易々と「反戦歌」のレッテル張りをしてしまう人々やメディアの見識を疑い、その浅薄さにうんざりする。筑紫哲也氏なんかも含めて。)