犯罪被害者にとって「納得のいく解決」とはいったい何をさすのだろう?

大阪・池田小の一件や、先ごろの長崎の男児殺害事件など、残虐な事件が多く発生している。特に、長崎の件については被疑者が14歳以下の少年でもあり、彼の「更生」と、被害者の家族の「心情」について、またも議論に上っているようだ。
被害者の家族、とりわけご両親が被疑者少年に対して「極刑」を望む気持ち、あるいは少年の「社会復帰」に対して複雑な感情を持つことは大いに理解できる。昨日のニュースでは、双方の親の心情に焦点を当てた構成での報道をやっていて、双方とも精神的な苦痛はいかばかりなものだろうと感じた。そして、こうも思った:「でも、お互いが何らかの"接点"をもつということはほとんど有りえないことなんだろうな」と。
そうなってくると、「被害者側にとっての"納得のいく解決"って何なんだろう?」と、私はしばし考えこんでしまう。仮に被害者側が「極刑」を望んでいるとすれば、では極端な話、死刑にすれば「納得がいく」のだろうか?あるいは、(今の日本では認められていないが)終身刑などで、一生涯拘束し、行動と精神の自由を奪ってしまえばいい、のだろうか?
しかし、そういう話も乱暴だと思う。少年犯罪や凶悪犯罪に関する雑誌のキャンペーン記事あたりをよんでみると、加害者の残虐さについては強調しても、「加害者をどう立ち直らせるか」という点についての論及は弱いか、全く語られない場合も多いのではないか。これでは、個々の事件の「社会的な解決」の土壌がつくられず、「悪いことをやった奴は、社会から隔離して当然、死んで当然」という一方的な意識が蔓延してしまうだけなのではないか。
先ごろの自民党・鴻池某氏の「市中引き回し」発言は、そういう点では反面教師的な「警鐘」として受けとめられるべきだろう。メディアの報道はこうした事件が起こるたびに「被害者側の心情」や「加害者憎し」に傾斜してしまうが、事件の「社会的な解決」の土壌づくりについても考えないと、同様の事態の拡大再生産ということになってしまうと思う。
#「義憤」は感情のひとつの形態だけど、その感情をつかんで利用しようとする連中が、つねにいる。
#来るべき事態は「司法の反動化」ではなく「司法の鴻池化」?私たちはもうもはや「民主主義」ではなく、意識において「封建政治」の時代に生きようとしているのか?あああ。。。